月の光もささぬ真夜中の森は、例え誰かが側にいても孤独に支配されてしまう空間。そのような中で、道の無い道を歩くことが出来るのは、おそらくカムイコタンに住んでいる者の中でもそうはいない。
その中でもナコルルは、この森を自分の庭のように思っている為か、目的さえなければ目をつぶってでも歩ける。そもそもナコルルは、この暗い中でもかすかに目が見えていた。
「・・・」
暗闇の中を歩きながら、ナコルルはしきりに腹を押さえる。なまじ中途半端な時間に起きてしまったせいで、小腹が空いてきてしまったのだ。
家にいれば、少しつまんでそれで済む事なのだが、生憎今は食べ物らしいものは見当たらない。別にどうしても食べないとだめというわけではないが、腹にわだかまりを生む空腹感が癇に障る。
段々とイライラが溜まって来たとき、足元より少し先の所で動く影が目に入る。
夜遅くに何故か現れた一匹の兎、その兎とナコルルがジーッと視線を合わせ続ける。
『お腹が空いているのでしょ?』
「・・・どうしろと?」
冷静さを取り戻したレラは強気だ。腹を押さえているナコルルに皮肉っぽく問いかける。
自分の中にいるレラに問いかける。ナコルルには、レラが言わんとしている事がすでに分かっていたが、それを自分の口では言いたくは無かった。
『勿論・・・殺しなさい』
きっとあの兎は、目の前に立っているナコルルが自分を殺すとは思っていないだろう、ずっと見つめ合っていても逃げ出そうともせず、二本足で立って周りを見回しながらも、一向にその場を離れる気配が無い。
「ガウッ」
それは一瞬のことで、ナコルルには何が起きたのかがはっきりしない。分かるのは、目の前から兎の姿が一瞬にして消えたこと。
側にいた筈のシクルゥが前から歩いてくる。そのシクルゥの口には何かがくわえられていた。
「シクルゥ、何をしているの・・・?」
つい今しがたまで見つめていた兎が、シクルゥに腹をかぶりつかれてうなだれている。
『シクルゥがやり安くしてくれたわ』
シクルゥが咥えた兎を地面に置く。
結構深くまで牙が入ってたらしい、兎の体の所々に穴があいて、暗くて分からないが真っ赤であろう血が溢れていて、荒い呼吸の為に腹だけ動かしてぐったりしていた。
『食べられない頭だけ取って、木の枝に刺して焼けばいい』
シクルゥが頭を取るのだと思ってナコルルはじっとしているが、シクルゥは一向に動こうとしない。
『何をしているの?ナコルル、早く兎の頭を引きちぎりなさい』
ナコルルの鋭い無表情がゆがむ。
「とどめを刺すなんて、出来ない・・・」
『人が殺した動物は食べるのに?』
理屈ではナコルルも理解はしている。人間は動物を食べて生きている。動物を食べる為には動物を殺さなくてはならい。誰かが殺さなくては食料を得ることが出来ない。
ナコルルの右手が兎の顎の下を、左手が肩のあたりをつかむ。
額にたくさんの脂汗を浮かべ、両腕ががくがくと震える。生まれて初めて、動物を自分の手で殺す。今まで大事にしてきた大地の一部を、自分の手で殺そうとしていることが、ナコルルの決断を鈍らせる。
シクルゥも腹を空かしているのだろう、唸り声を漏らしてよだれを垂らしながら、食い入るように兎を見入っている。その目は、『早く殺せ』と訴えかけているようにも見え、急かされている感覚が更に不安を増徴させる。
『これから生きていくうえで必要になる。情を捨てなさい』
「・・・・・・ンンンンアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァッッッ!!」
ブヂュッ、シャーーーーーーーッ
・・・・・・・・・
ぱちぱち、ぱちぱち、
今目の前で燃え盛っている焚き火を焚いたのはナコルルだが、どうやって焚いたのかは全く覚えていない、気付いたら焚き火の前で両膝を抱えて座っていた。
焚き火の側には木の枝が刺さっており、その枝には動物の肉が刺さっている。その肉は、ついさっきナコルルが殺した兎のものが、随分と焼けていて体毛が全て無くなっている。
「私のしてること、他の人間と同じじゃない・・・」
『・・・これは食物連鎖にならっている。自然の掟に従っている』
「こんなのが、自然の掟・・・?」
自分の手を眺める。
生きていた兎の生暖かさが残っている。飛び散った血が付いたのもそのまま。こうしなければ、人間が生きていけないのだということを改めて知る。
あぶっていた肉の枝を引き抜き、顔の前に持ってくる。枝に刺さっている動物の体の形をした肉が、さっきまで生きていた兎だということが信じられない。
香ばしい匂いがしているはずなのに、ナコルルにはなんだか生臭く感じられた。
足の部分を引きちぎり、シクルゥに分けようとそちを向き、絶句して動きが止まる。
ブヂュ、ズヂュ、ヌチャヌチャ・・・
視線の先では、焼いてもいない兎の頭にかぶりついているシクルゥの姿があった。
肉のほとんど付いていない頭に牙を立て、前足で押さえて肉を引きちぎり、血を撒き散らしながら肉を噛み、そして喉の奥へ流し込み、また頭にかぶりつく。
更に食欲を無くしそうになるが、自分がこれを食べなかったことによって、殺した兎が戻って来る訳ではない。ましてやこの兎が無駄死にになってしまう。それこそあってはならない事だ。
いつの間にか、想像以上の空腹で腹が痛くなってくる。意を決して肉を口に運ぶ。
一噛みする度に肉汁があふれ出し、どろりと口の中に広がる。
(私は、大自然の掟に従ってる・・・)
もう、ナコルルには開き直ることしか出来なかった。
空腹の大きさも手伝って、自分は生きるために仕方なく殺したんだと納得し、目を閉じて勢いよく肉にかじりつく。
時折隣からガリッ、ゴリッという、骨をかじる音にびくりとしながら、音を振り払うように夢中になってむさぼる。
・・・・・・・・・・
半分くらいナコルルが食べ、残りはシクルゥにあげてしまった。今ではもう肉は残っておらず、シクルゥは残った骨にかじりついている。
生きてきた中で最も後味の悪い食事は、ナコルルの心に深い傷として残った。
『森を抜けるのは明日にして、もう寝なさい』
思い出したかのように急激に眠くなる。今の事を忘れてしまうためにも、体を横に倒して、焚き火の炎に向かい合いながら眠りに付いた。